ひねもすのたり

読書レビューです。あくまで一個人の感想として読んでいただけたら幸いです。

荒神/宮部みゆき

前回の記事から間が空いて、いっそこの自己満足的なレビューもやめてしまおうかと思ったけれど、結局胸の内を抱えきれずにここにこぼす事にした。

 

宮部みゆきの時代小説、特に怪談やそれに準ずる、不思議物語、と言えばいいのか、とにかくそれにはいつも魅せられるものがある。

時代小説が好きなのだが、これは当時の生活や文化が好きだというのと、この時代だからこそありえそうな、現代では起こりえないだろう不可思議な怪が面白いというのがある。

話は少し逸れてしまうが、私が愛読している「三島屋変調百物語シリーズ」も、一話一話は短編でありながら、その世界観はとても深く、江戸の生活や文化に触れていながらも不思議話でもある。

 

この「荒神」は、怪談小説、と言ってしまうには少し違う気がする。たしかに怪の談なのだが、物の怪ではなく怪物の話である。それも、人の業が生み出した、世にも恐ろしい怪物だ。

 

物語は東北の山村から始まる。元禄、もっと詳しく言えば犬将軍で有名な綱吉公の時代、一万石の小藩、香山藩の仁谷村が一夜にして壊滅した。香山藩とは大平良山を挟み隣り合う、永津野藩と香山藩は主藩と支藩という間柄にありながら、その成り立ちからいがみ合っていた。永津野藩の藩主の側近を務める曽谷弾正の妹、朱音は仁谷村の生き残りの少年、蓑吉を拾い、助けて匿う。その蓑吉が語り、そして朱音が実際に目にした怪物は想像を絶する恐ろしいものだった。

 

以下、ネタバレ注意。読後に読むことをお勧めする。

 

荒神を読む中で、特に後半部は驚きの連続だった。「レベル7」でもそうだったが、宮部みゆきの作品はどんでん返しの連続で、突飛なようでちゃんと最初から筋が通っていて布石も敷いてある。しかもその布石は、何かあるような気がするだけでその正体には語られるまで気づけないのだ。

荒神ではどんでん返しというよりかは驚きの真相といった方が正しいだろうが、読めば読むほど止まらなかった。

 

怪物自体も恐ろしいものであるが、それが生み出されることになった経緯も、人の業の深さを感じさせられるものだった。人がそれを忘れても、罪がなくなることはないのだ。

 

しかし、この話から得られるものは恐ろしい、悲しい、ばかりではない。

香山は極楽、山を越えた永津野は地獄、と香山の子供である蓑吉は教わってきた。しかし永津野の朱音に助けられ、共に溜家で暮らすうちに蓑吉は、永津野の民も香山の民もおんなじだということに気づいていく。

そして朱音は、永津野の民を餌に香山の民をどうにか救おうとする小日向直弥に言うのだ。「永津野の民も人です」と。

忘れがちだが大切なことの一つだと思う。香山の民も永津野の民も、互いに互いを鬼のように思い暮らしていたが、本当はおんなじなのだ。(蛇足ではあるが、作中では永津野の曽谷弾正や彼の部下の人とも思えぬ所業の恐怖を植え付けられている人々の描写が多かったが、私は香山藩の方が恐ろしかった。香山も決して清廉潔白ではなく、そういう、人の業の深さでもおんなじなのかもしれない)

 

宮部みゆきの書く、話の本筋ではないけれど話に深みを持たせる、重要な恋愛描写が好きだ。それもさりげないもの。「好きだ」「付き合おう」「結婚しよう」とは言わないけれど、ああ、好ましく思っているんだなぁと察せられるものが好きだ。

だから私は三島屋シリーズのおちかと青野利一郎の二人が好きだったし、二人が別々の人と結婚した時は内心泣いた。青野利一郎を止めてくれと何度もおちかに願った。母には「縁がないというのはそういうことだ」と言われたが、やっぱり少し引きずった。

他にもソロモンの偽証の藤野涼子と神原和彦のことは途中からずっとくっつけくっつけと思って見ていたので、正直歓喜した。

話は逸れたが、荒神では、朱音と宗栄が終盤で素晴らしい展開を見せてくれた。あまり思っていなかった二人だったけれど、すんなり受け入れられたし、その展開のタイミングがタイミングで、あれが最も切なく感じられるタイミングだったなぁと思う。あれも、母の言を借りれば「縁がなかった」のかもしれない。

香山と永津野の民を助けたいという気持ちは、宗栄の心に嘘偽り無く大きくあったと思う。しかしそれでも「朱音がこの場にいなければ」と思ったのだ。このような運命を背負わせたくはなかったけれど、朱音以外にはいなかった。

「二十年早く家を出て朱音を、今ここにはいなかっただろうどこかへ連れ出したかった」というその宗栄の思いが胸をつくほど切なかった。

ただ朱音がこの運命から逃れられればよかったのに、と願うだけではないのだ。「自分が」朱音を救いたかったのだ。それはきっと柏原の家に素質を持って生まれたという出生だけではなく、曽谷弾正という彼女を縛る、希望だった呪いからもだ。

救いという言葉があっているのかはわからないが、この避けようのない運命から救うには知らずにいることしかないのではないかと思う。それがどれだけの被害を及ぼしたかも知らずに全く別の場所で生きて死んでいく。これはある意味、朱音の救いではないかと思う。

朱音は宗栄のその気持ちだけで充分幸せだと言った。宗栄は幸せはこんなに悲しくはないと思った。

こんなことをあれこれ推すのも野暮ではあるが、朱音が果たして宗栄に対して好意を持っていたのかというと、私はそうだと思う。思いたい、というのもある。

宗栄の思いは一方通行ではないように読み取れる──宗栄目線だったからかもしれないが──からだが、イマイチ言い切りにくいのは、朱音は今から死ぬ者として、宗栄にとっても自分にとっても未練は断ち切るべきだと自律していたからではないかと思う。

朱音は宗栄に「怪物に食べられたら、あなたが私を殺してくれ」と言った。考えすぎかもしれないが、これは単に宗栄が暮らしを共にし、信の置ける者だったからというだけではない気がする。考えすぎかもしれないが。

 

朱音はこの時、やじに、この退治が終わったら本来のやじで生きろと言った。私は女として生きろという意味かと思ったが、その後のやじは今までどおりのやじだったから、単にやじがこれを聞く気がなかったのか、あるいはこれまで通り志野家の百足としてという意味だったのかのかもしれない。ただやじは最初に比べてよく喋るようになったなと思う。

 

また同じ時、蓑吉の言った一緒に山を降りように対して、朱音は少女のように「うん」と言った。怪物とともにここで死ぬのだとわかっていたのにだ。蓑吉を誤魔化す為の方便にしては、描写がしっくりこない。しかしあまり深い含意があるとも思えない。ただ単純に朱音は「うん」と肯定したのだ。うまくは言えないが嘘でもなく、運命をその一瞬だけ受け入れていなかったのでもなく。

 

永津野サイドでは、その後の語りがあったのはおせんだけだった。宗栄や左平次、音羽はこうなった、とおせんや小日向が語ってはいるが、いずれも本人たちの目線で語られることはなかった。おせんは、朱音様は大平良山にずっといると言ったが、ごくごく個人的な話、私はこういう描写が苦手だ。収まりはいいけれど、やっぱりそばにいないのは寂しいし、目に見えなければいないのだ。そう思うのは私の人生経験がまだ少ないからだろう。

加助がどうなったのか、ずっと気になっていたがあそこで死んだと語られ、やっぱりかとは思いつつ、一人残されたおせんが哀れだと思った。誰かと溜家での生活を懐かしんで慰め合うことも出来ないのだ。朱音様を懐かしむ者はたくさんいるだろうが、溜家での生活を懐かしめる者は、おせんの側にはもういない。よく考えれば、傘を持っていくあの日の朝以降、おせんは朱音に会っていないのだ。

そりゃ信じがたいしやりきれないだろう。

 

偉そうに言わせて貰えば、小日向直弥も蓑吉も成長したなあと思う。香山の闇は永津野のそれよりもずっと恐ろしかったように思うけれど、多少居心地は悪くても、わりかし大団円で終わった中で、少し後味の悪かったのは絵師の菊池圓秀だった。

朱音に呪文の写しを頼まれ、その役目を果たした後気絶し、しかし退治の一部始終を見て気の狂った絵師だ。彼は心の目が曇っているから旅をしていると言った。その才が目覚めるのを菊池家は心底望んでいた。

しかし皮肉な話である。いざ心の目の覚める物事を見届けると、圓秀は狂ってしまったのだ。やがて遺した作品は、傑作でありながら人の見るべきものではなかった。彼一人が大団円からぽつねんと置き去りにされてしまったようだ。ただ、こういう表現は陳腐なようだが収まりは良かったな、と思う。

 

万事においていい意味で収まりのいい作品だった。朱音のことが好きだっただけに、読みながら、私もなんとか朱音は助からないかと願っていた。あれで朱音だけ助かってしまったら、それこそ御都合主義なのだけど、やっぱり好きな登場人物には生きていてもらいたいものだし、朱音が「溜家での生活は楽しかった」と漏らし、おせんが懐かしんでいたように、私も溜家で彼らが生活する様を読んでいるのが好きだった。もっと言うならば、宗栄と朱音が幸せになるところを見たかった。

 

あと数日はこの余韻に浸ろうと思う。書き出すことによってかなり自分の中での考察もまとまった気がする。

思うがままに書き散らしたこのレビューとも言えないなにかを、ここまで読んでくれた人がいたならば、心のそこから礼を言いたい。